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大阪地方裁判所 昭和51年(ワ)579号 判決

原告

上月志津代

外二名

右原告ら訴訟代理人

山崎薫

外三名

被告

右代表者法務大臣

倉石忠雄

右指定代理人

細川俊彦

外一名

被告

大阪府

右代表者知事

岸昌

右指定代理人

細川俊彦

外四名

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実《省略》

理由

一次の各事実はいずれも全当事者間に争いがない。

1  隆志は、昭和二二年一二月二六日高知県宿毛市に生まれ、昭和四〇年窃盗の罪を犯し、昭和四一年四月同市内で傷害の罪を犯して同年五月松山中等少年院に収容され、昭和四二年七月に仮退院して同年一二月に退院の決定を受けた。

2  大阪府公安委員会は、銃刀法四条に基づき、大阪府内に住所地を有する者の銃砲の所持について許可を与える権限を有するところ、警察法四五条に基づき専決規程を定め、ライフル銃以外の猟銃の所持許可について、申請人の住所地を管轄する警察署の署長に、常時、大阪府公安委員会に代わつてこれを専決する権限を付与していた。隆志は、昭和四七年七月三一日、当時すでに錦荘{大阪市城東区天王田町三丁目一番地(現表示、同区東中浜四丁目二番二号)錦荘アパート}に居住していたので、城東警察署長に対し、大阪公安委員会に対する銃砲所持許可申請書(所持しようとする銃砲は散弾銃、用途は狩猟及び標的射撃)を、隆志の同居親族表、写真、精神病等に関する診断書、住民票の写し及び隆志の知人貝賀庄市作成の銃砲所持許可申請同意書を添付して提出し、猟銃等講習課程修了証明書を提示した。城東警察署長は、審査のうえ、同年八月二一日隆志に対し、専決規程に基づき、大阪府公安委員会の名をもつて「銃砲所持許可証」を交付した。隆志は、同月二八日西村銃砲火薬店こと鷲見正彦から本件猟銃を購入し、銃刀法四条二項、同法施行規則一条、六条一項に基づき、同月三一日城東警察署長に対し、右許可証とともに本件猟銃及び鷲見正彦の譲渡承諾書を提出して、同日同署防犯課長から、本件猟銃が右許可に係る銃砲であることの確認を受けたうえ、その後は本件猟銃を錦荘四八号室の自室の銃保管用ロッカーに格納していた。

3  隆志は、昭和四八年九月一九日、錦荘四一号室に住む叔父の森岡武士と飲酒し口論の末、同人を殺害する目的で、自室から本件猟銃を持ち出して携帯し、錦荘付近で同人の所在を捜していたところ、同日午後一一時五〇分ころ、大阪市城東区鴨野東六丁目九六番地(現表示、同区東中浜一丁目一二番一三号)先路上において、同所所在株式会社丸栄電気工事代表取締役上月国雄を認め、同人を武士(又はその仲間)と誤認して殺害しようと決意し、直ちに本件猟銃で上月の腰部に一発射撃し、そのため、同人をして、翌二〇日午前零時ころ、同区蒲生町三丁目四〇番地東大阪病院において、腰部銃創による左腸骨動静脈断裂に基づく失血のため死亡させた。

4  原告上月志津代は上月国雄の妻であり、原告上月永子及び同上月斉は上月国雄の実子である。

二原告らは、日本国憲法一一条、一三条、警察法二条一項を法的根拠として、国及び公共団体は、国民各個人に対し、警察機構を通じてその生命身体を殺人傷害等の犯罪から擁護すべき義務を負い、本件のような行きずりの理由なき殺傷事件が発生した場合、右義務を果し得なかつたことによる責任を負うものと解すべきであり、したがつて、被告らは上月国雄又はその遺族である原告らに対し、債務不履行に基づく損害賠償義務がある旨主張する。しがしながら、日本国憲法一一条、一三条は、基本的人権の保障に関する基本原則を、警察法二条一項は、警察の警察行政における一般的責務を定めたものであつて、いずれも国民の国又は公共団体に対する具体的請求権を定立したものでないことは、その文言からも明らかである。しかも、犯罪の発生は、人間社会においては避けることのできない必然的現象ともいうべく、特に基本的人権を最大限に保障した現行法制の下では、警察機構の肥大化とその権限の過当な拡張は厳しく制限されるべきであるから、犯罪の発生を完全に抑止することは事実上不可能である。したがつて、国及び公共団体が国民個人に対し、すべての犯罪行為からその生命身体等の基本的人権を擁護すべき義務を無条件に負うと解すべき法的根拠を欠くというべきであるから、原告らの右主張は理由がない。

三次に、原告らは、大阪府公安委員会による隆志に対する猟銃の所持許可が、許可基準の甘さと調査の粗漏のために銃刀法五条一項二号又は六号の欠格事由に該当することを看過した結果、許可されるべきではない者に対しなされた違法なものである旨主張するので判断する。

1  まず、隆志の犯歴、生活歴、性格、飲酒癖について検討することとする。

〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。

(1)  隆志は、昭和四〇年四月一三日、無免許で運転していた単車を自転車運転者に衝突させて受傷させるという業務上過失傷害・道路交通法違反被告事件について、宿毛簡易裁判所において罰金三万円に処せられ、同年八月二四日数名共同して西瓜を盗んだ事件について高知県中村警察署に検挙され、同年一〇月七日高知家庭裁判所中村支部において保護処分に付さないとの決定を受け、さらに、昭和四一年四月、仲間と共同して以前殴られたことのあるバスの修理工を飲酒のうえ下駄や素手で殴り同人に打撲傷を負わせるという事件を起こし、同月二八日高知県宿毛警察署に検挙され、同年五月二六日高知家庭裁判所中村支部において中等少年院送致の決定を受け、松山中等少年院に収容され、昭和四二年七月仮退院して、同年一二月退院の決定を受けた。

(2)  隆志は、昭和二二年一二月二六日高知県宿毛市において、父根口貞猪と母森岡久代(二人は従兄妹)との間の婚姻外子として生まれたが、昭和二四年ころから久代が同市内で澤田暢と同棲し昭和二九年正式に結婚したため、暢の実子同様に養育され、昭和三八年ころには暢の子として認知された。隆志は、中学校時代までは無口・内向的で感情表現が少なく、落ち着きを欠き注意散慢で飽きつぼく、学業成績も不良であつたが、暢・久代の両親から過保護・庇護的に遇されていた。

(3)  隆志は、昭和三八年三月中学校を卒業した後、両親の勧めで大阪にある関西テレビ技術学校に入学し、大阪でひとり暮しを始めたが、強いホームシックにかかり、下宿先から宿毛市の自宅へ田舎に帰りたい旨再々電話をし、必配した両親の助言もあつて久代の弟森岡清義方に同居したものの、修業年限を一年残し一年で学校をやめ宿毛市に帰郷した。この関西テレビ技術学校時代、カミソリで左胸部を自傷したことがあつた。隆志は、宿毛市に帰つてからしばらく仕事につかなかつたが、その後有田電気工事店に約一年、さらに布電気工事店で工員として働き、この間に前記窃盗及び傷害を犯した。高知少年鑑別所の記録によれば、当時の隆志について、情緒不安定、意志薄弱、優柔不断、神経質、忍耐心欠如、被影響的、怠惰放縦で、自主性と一貫性に欠ける性格を有するが、知的素質は準普通域上位にあり、精神障害も認められないとしている。なお、布電気工事店時代、働き振りは真面目であつたが、暢が実の父でないことを知つてからは、両親に対して反抗的となり言われたことを根に持つ、短気な性格がみえはじめた。

(4)  昭和四二年七月松山中等少年院を仮退院後、隆志は、布電気工事店に再就職したが、知り合いの美容師宮川美恵子が大阪府富田林市に転出したことから、昭和四三年初めころ、その後を追つて再び来阪し、同女と同棲して、大阪市生野区のアサヒサービス株式会社に勤めた。しかし、二人の結婚については美恵子の家族に反対され、美恵子は高知県に連れ戻された。昭和四三年五月ごろ隆志の両親が隆志のことを心配して来阪し、隆志は、錦荘において両親と同居するようになつたが、同年六月ごろ貨物自動車を運転中追突され、むち打症により一年間生野区の今村病院に入院し、退院後も曇天時には頭痛を訴えることがあつた。昭和四四年五月から一年間鎌田工務店に勤め、慰安旅行の際同僚と口喧嘩をした以外、真面目で几帳面な仕事振りであつた。隆志は、この時期にも一度自動車事故を起こし、三か月ほど通院治療を受けたことがある。その後、城東区の富士運送において長距離トラックの運転に従事したが、母の久代から服が汚れると反対されたため、三、四か月でやめた。隆志は、昭和四六年八月ごろから同郷の本町千代と錦荘において同棲し、昭和四七年一二月婚姻の届出をしたが、同棲後は粗暴な面も目立たなくなつた。同年一月ごろ沢田金属に勤めてトロフィーの組立作業を担当し、時に無届欠勤することもあつたが比較的真面目に勤務し、昭和四八年一月長女が出生し、同年七月から本事件に至るまで南運送店に勤務していた。

(5)  一方、隆志は、昭和四三年夏叔父の森岡清義に連れられてクレー射撃に行き、その後もキジ射ちなどで清義に同行したことから猟銃に興味を持ち、自ら猟銃を所持するため本件猟銃の所持許可を受け、猟犬を飼つていたこともある。隆志の性格について、元の雇い主や同僚は、おおむね真面目、几帳面、無口、人さわりのよい、律気といつた印象を述べているのに対し、両親は、小心、甘えん坊、友達の出来ないひとり息子的な自己中心的な考え方をしているとみている。

(6)  隆志は、有田電気工事店勤務時代から酒を飲み始めたが、アルコールに弱く、平素は缶ビール一本(三五〇ミリリットル)飲んだだけで寝てしまうこともあつた。また、隆志は、酩酊すると、孤独感・焦燥感等から自傷行為がみられ、少し量を過ごすと、粗暴な行為に出ることがあつた。たとえば、昭和四七年春ごろ、隆志が酩酊して暴れるので妻の千代が別れたいと言つたところ、隆志は、急に泣き出し、大事なものはなんでもやると言い、登山ナイフを持ち出して車に内から鍵をかけて閉じ籠り、自らナイフで左手首を切り、同年一〇月ごろ、宿毛市の飲み屋で飲酒中急に死にたくなつて刃物で手首を傷つけ、本事件の数日前に、飲酒後自らの左手の甲を包丁様の刃物で傷つけ、右以外にも、左前腕外側部に右同様の自傷行為による切創痕を有している。また、昭和四四、五年ころ鎌田工務店の忘年会で同僚と口喧嘩し、その場は他の同僚に止められたものの、自宅に帰つてから鞘付きの短刀を取り出し、過つて自らの左手を右短刀で傷つけ、昭和四六、七年ころ宿毛市で友人と飲み歩き、喫茶店で女主人と喧嘩し、逃げる女主人を追いかけ、ドアーが閉つているのに気付かず突つ込んで、ドアーのガラスで右手のてのひらを切り、さらに、酩酊して水中銃ややす(漁具の一種)を持ち出したことがあるが、隆志は、酔いから醒めた後、これらのことをあまり記憶していないことが多かつた。

(7)  本事件の刑事裁判手続において、隆志の精神状態の鑑定に当つた鑑定人中山宏太郎・同中田修・同浜義雄作成の鑑定書によると、隆志には精神病の所見はなく、過去にもその病歴をうかがわせる事実はない、脳波検査、精神学的検査にも特に異常がない、知能はIQ八〇ないし一〇九程度の正常ないし正常下位域で問題になるものではない、性格について、意志薄弱性の異常性格の傾向をもち、アルコールに対して不堪症で異常酩酊の傾向を有し(中田鑑定)、やや異常な、うつ性の、軽佻性を帯びた性格であるが、異常性の程度は軽度で、精神医学的な異常性格(精神病質)には達していない(浜鑑定)、本事件の犯行時においてもうろう型の病的酩酊状態にあつた(中山・中田鑑定)、あるいは、もうろう型の病的酩酊とは認められずいわゆる複雑酩酊に過ぎなかつた(浜鑑定)としている。

右のとおり認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右事実によれば、隆志の性格については、前記鑑定人指摘の偏倚を有することが認められるものの、異常性格というほどではなく、成人後来阪して両親の監督の下に就業し、結婚して一子をもうけ、職場を転々としながらも真面目に稼働していたのであり、飲酒したときのほかは問題行動も認められなかつたのであつて、隆志は、銃刀法五条一項二号の「精神病者」又は「心神耗弱者」に該当しないというべきである。しかし、隆志は、前認定のとおり意志薄弱で、やや異常なうつ性の軽佻性を帯びた性格を有し、アルコールに対し不堪症であつて、酩酊して自傷行為や他人に対して粗暴な行為に及んだ経験を有し、しかも、前記傷害事件も飲酒したうえでの犯行である。そうすると、同条一項六号の規定の解釈として、隆志が同号の欠格事由に該当するとの見解の成立する可能性も否定し難い。しかしながら、隆志に対する猟銃の所持許可の違法性を判断するには、あくまで右許可手続の審査時点における担当警察官を基準とすべきであるから、具体的審査手続に則つた検討を要するのである。

2  そこで、隆志に対する猟銃の所持許可に至つた具体的審査手続について検討する。

まず、銃砲の所持許可手続に関する法律、規則等を通覧するに、銃刀法は、同法四条の規定による許可のある場合など例外を除き、一般的に銃砲の所持を禁止し(三条一項、なお、右禁止規定に違反した者は、本事件当時、昭和五二年法律五七号による改正前の同法三一条の二第一号により、五年以下の懲役又は二〇万円以下の罰金に処するとされていた。)、狩猟等の用途に供するため、猟銃を所持しようとする者は、所持しようとする銃砲ごとに、その所持について、住所地を管轄する都道府県公安委員会の許可を受けなければならないとし(四条一項)、右許可をしてはならない者として、五条一項において、精神病者、麻薬若しくは大麻の中毒者又は心神耗弱者(二号)、他人の生命若しくは財産又は公共の安全を害するおそれがあると認めるに足りる相当な理由がある者(六号)などを列挙している。そして、同法施行規則は、右許可を受けようとする者に対し、同居親族表、申請人の写真二枚、精神病等に関する診断書、住民票写しの銃砲所持許可申請書への添付と猟銃等講習課程修了証明書の提示を義務付けている。また、前記争いのない事実によれば、大阪府公安委員会は、専決規程を定めて、ライフル銃以外の猟銃に関する銃刀法四条の所持許可について、申請人の住所地を管轄する警察署の署長に、常時、大阪府公安委員会に代わつてこれを専決する権限を付与していたから、隆志による本件猟銃の所持については、許可権限を大阪府公安委員会が、右許可に関する専決の権限を大阪府城東警察署長が、それぞれ有していたのである。さらに、成立に争いのない乙二〇九号証によれば、大阪府警察本部は、本件猟銃の所持許可手続当時、銃刀法、同法施行令、同法施行規則に基づく事務のうち、専決規程により、署長が行なう事務の取扱手続及びその連用について、次の内容の規則を定めていたことが認められる。

(一)  署長は、ライフル銃を除く猟銃の所持許可の申請書を受理したときは、(1)申請の内容及び添付書類等(提示すべきものを含む。)は所定のとおり具備しているか、(2)申請にかかる銃砲とその用途及び所持目的が銃刀法四条一項各号の規定に照らして客観的にその必要性は認められるか、(3)申請人は同法五条一項各号のいずれかに該当していないか、(4)同法五条三項の規定に該当していないか、(5)申請にかかる銃砲の保管方法は同法一〇条の三の規定に照らして適切であるかについて調査のうえ、許可しても支障がないと認めたものについては、申請人に許可証を交付するものとする。なお、右(2)ないし(4)についての調査は、本籍地市町村役場に対する身上照会及び氏名照会、指紋照会、欠格事由照会、面接調査、住所地付近における聞き込み、前住居地管轄警察署に対する照会等必要な調査をしなければならない{銃砲刀剣類等に関する事務取扱規程(昭和四一年一二月二日本部訓令三二号)二条}。

(二)  猟銃の所持許可に対しては、必ず専務員が面接調査を行ない、その所持目的及び申請人の欠格事由を十分審査する。銃刀法五条の欠格事由の調査は、申請人及び同居の親族についても確実に行なう{銃砲刀剣類等に関する事務取扱規程の運用について(昭和四六年八月二七日例規保(一)五一号)1の(1)}。

次に、隆志に対する猟銃の所持許可のための具体的審査手続をみるに、〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。

(1) 尾田巡査長は、昭和四七年七月三一日、城東警察署防犯課保安係に所属する猟銃の所持許可手続に関する事務を担当する専務員として、隆志からの銃砲所持許可申請書を受け取つた後、直ちに、右申請書の記載内容と添付書類等を点検しつつ、隆志と面接して事情を聴取した。右申請書には、所持する銃砲の種類として散弾銃、用途として狩猟・標的射撃と記載され、添付された同居親族表には、同居している親族(内縁関係の者を含む。)がない旨、医師早川俊夫作成にかかる精神病等に関する診断書には、隆志が精神病者、精神薄弱者、てんかん病者、アルコール・麻薬・大麻・あへん・覚醒剤中毒者でない旨、住民票の写しには、隆志が同月一二日宿毛市宿毛三二番地から大阪市城東区に転入し、錦荘を住所として隆志を世帯主とする住民票が作成されたが、隆志以外に世帯に属する者がない旨記載され、提示された猟銃等講習課程修乙証明書には、隆志が銃刀法五条の三の猟銃の取扱い等に関する講習を受けその課程を終了した旨記載されていた。尾田巡査長は、隆志との面接において、隆志から猟銃の所持目的、所持を希望するに至つた動機、性格、趣味、嗜好、酒癖などについて聴取し、銃の危険性を説いて行政指導として一応翻意を促したが、隆志の猟銃所持の意思が固く、右各書面及び隆志からの事情聴取結果から異常が認められなかつたので、申請書を受理した。ただ、右各書面によれば、隆志は二五歳未満でアパートに独居していることになつていたので、尾田巡査長は、当時の取扱い準則に従つて、隆志に猟銃を所持するについてアパート管理人からの同意書の提出を求め、用紙を交付した。

(2) 尾田巡査長は、大阪府警察本部の定めた前記規則にしたがい、昭和四七年八月三日隆志の本籍地の所在する高知県宿毛市長に対し隆志について前科及び禁治産宣告の有無を照会し、同市長から同月九日付で前三1(1)記載の業務上過失傷害・道路交通法違反の罪で処罰された前科を除き他に前科及び禁治産宣告がない旨の回答を得た。同月三日同警察本部鑑識課長に対し隆志の犯歴の有無を照会し、同課長から翌四日氏名による対照の結果該当原紙を発見できなかつたとの回答があつた。同月三日同警察本部刑事部捜査第四課に対し隆志が暴力団の構成員であるか否かについて照会し、同課から同日構成員ではないとの回答があつた。さらに、同日隆志の前住居地である宿毛市を管轄する高知県宿毛警察署長に対し、前住地における隆志の素行等について照会した。右照会を受けて調査担当者となつた宿毛警察署山奈駐在所勤務の巡査長橘一男は、たまたま帰省中の隆志の実母沢田久代に面接し、久代に隆志が銃砲の所持許可を申請している旨告げて隆志の素行等について問いただし、久代は、隆志が右申請をしていることは知らなかつたが、希望はかなえてやりたい、学校の成績は中程度で、先生に呼び出されたこともなく、素行は普通である旨回答したが、隆志の犯歴については秘していた。橘巡査長は、暢の親族ほか宿毛市山奈町芳奈近隣に居住する一〇余名から隆志の素行等について聴取した結果をもとに、隆志は、出生後二、三年してから母久代と宿毛市宿毛三二番地で成長したが、素行は良好で、学校を卒業後農業等に従事していた旨、銃刀法五条一項各号に該当する事項はなく、特に風評等悪い事項はない旨、同月一〇日付で宿毛警察署長名をもつて回答した。

(3) 尾田巡査長は、隆志の素行調査のため錦荘付近に赴き、たまたま錦荘から出てきた中年の女性から隆志の日ごろの行状について聴取したが、特に問題があると認められる回答は得られなかつた。また、隆志から錦荘の管理人貝賀庄市作成名義の銃砲所持許可申請同意書の提出を受けた後、貝賀に電話で照会して右同意書が貝賀の真意に基づいて作成されたことを確認した。

(4) 尾田巡査長は、右各調査結果に基づき、昭和四七年八月一八日城東警察署長に対し、隆志には銃刀法五条一項各号の欠格事由がないので猟銃の所持許可をしても支障ない旨の意見を付して調査報告書を提出し、同署長の決裁を得たうえ、同月二一日隆志に銃砲所持許可証を交付した。さらに、同月三一日隆志から本件猟銃と西村銃砲火薬店こと鷲見正彦が作成した本件猟銃の譲渡承諾書の提出を受け、本件猟銃が右所持許可にかかる銃砲であることを確認した。

右のとおり認められる。なお、〈証拠〉中には、澤田久代は橘巡査長に面会したことがない旨の記載部分があるが、証人澤田久代の証言によれば、右記載部分の表現は正確でなく、単に記憶がないというのが久代の真意であつたことが認められ、また、同号証中には、久代又は暢の親類は宿毛市に住んだことがない旨の記載部分があるが、右証言によれば、右にいう宿毛市は同市山奈町を含まない合併前の旧宿毛市の趣旨であつて、同市山奈町には暢の親族が居住していることが認められ、甲五八号証中の右記載部分は採用できない。一方、証人橘一男の証言中には前認定事実、〈証拠〉に照らすと、正確を欠く部分が散見されるが、これは、調査時点から証言時までに六年半の日時が経過していること、橘巡査長が隆志の本籍地である宿毛市山奈町の駐在所勤務であつて、同町周辺に居住する者から主として事情を聴取し、前示甲三四号証により認められる隆志が宿毛時代の殆んどを過ごした旧市内における調査は久代との面接程度にすぎなかつたことに起因するものと考えられるので、正確を欠く部分のあることから、直ちに右証言自体の信憑性を否定するのは妥当ではない。〈証拠判断略〉

3  隆志に対する猟銃の所持許可については、右許可のための審査ないし審査のための調査を担当した警察官が審査時点において入手していた資料及び通常なすべき調査を尽したならば右時点において入手することが可能であつた資料に基づき、その違法性の有無を判断すべきものと解する。そこで、この見地から前認定の審査手続をみるに、まず、右審査を担当した尾田巡査長が審査時点において入手していた資料中には、隆志が銃刀法五条一項各号の事由に該当することをうかがわせるに足りる資料が存在しなかつたことは前認定のとおりである。

次に、猟銃は非常に危険な武器であるから、その所持許可の可否を審査するための調査は、申請人の適格性につき可能な限り綿密に行なわれなければならないか、反面、銃刀法は、五条一項において右許可における欠格事由を列挙しつつ、四条一項一号において狩猟、標的射撃のための猟銃所持についても許可をなしうる旨定めていること、〈証拠〉によれば、同法四条一項の所持許可申請が大阪府警察本部において年間平均二五〇〇件にも及ぶことが認められることを勘案すると、前認定の同法施行規則及び大阪府警察本部が定めた規則に規定する調査方法は、一応妥当なものということができる。そこで、この基準に則つて尾田巡査長及びその照会を受けて調査を担当した警察官の調査方法の適否について考えるに、尾田巡査長による隆志の住所地付近における聞き込みは、隆志が当時は内縁の妻であつた千代と同棲していることさえ判明しなかつたほど杜撰なものであつて、調査を尽していたならば、当然千代あるいは廊下を隔てた向いの部屋に居住する両親から事情を聴取できたものと考えられる。また、尾田巡査長から氏名照会を受けた大阪府警察本部鑑識担当警察官は、同警察本部の記録のみを調べたうえで該当紙不発見の回答をしたが、〈証拠〉によれば、未だ犯歴についてコンピューターシステムによる情報集中管理方式が導入される以前の本事件発生時において、同警察本部鑑識課は、隆志が逮捕された昭和四八年九月二〇午前三時四二分以後に城東警察署長名で照会されたと推認される氏(指)名照会に対し、同日午前六時四五分に前三1(1)記載の少年時代の犯歴についても回答しているのであつて、尾田巡査長からの照会に対しても比較的容易に少年時代の右犯歴について回答をなしえたものというべきである。さらに、尾田巡査長から宿毛市における隆志の素行等について照会を受け調査に当たつた橘巡査長は、その所属する宿毛警察署には前認定の傷害事件に関する記録が保存されていたものと推認され、また、旧宿毛市内には隆志の勤めていた布電気工事店等が所在するのであるから、調査を尽していたならば、隆志の少年時代の犯歴、宿毛時代の職歴等について資料が得られたものと考えられる、しかも、〈証拠〉によれば、調査段階において前歴等問題点が発見された場合にはより徹底した調査を尽す取扱いであつたことが認められる。

これらの点を総合すると、前認定の隆志の犯歴、生活歴、性格、飲酒癖のうち、調査によつて判明しえた事実は、前三1(1)の事実並びに高知少年鑑別所における隆志に関する記録、隆志の職歴、雇い主、同僚、近隣住民から見た隆志の性格、行状、仕事振り程度に限定されるものと推測される。ところで、〈証拠〉によると、隆志の両親(暢と久代)と妻の千代は、隆志に対する本事件の刑事裁判手続及びこれに先行する捜査段階において、前認定の隆志の性格、飲酒癖について詳細に供述しているが、これは、隆志が凶悪な事件を起こしその刑事責任を追及するための手続においてなされたものであり、しかも、〈証拠〉によれば、久代は隆志が猟銃を所持することについて当初反対であつたが、最終的には貝賀庄市から前記銃砲所持許可申請同意書を貰うことに協力したこと、隆志が本件猟銃を購入した際には両親が付き添つて行き、代金の不足分は暢が支払つたことが認められ(〈反証排斥略〉)、これら事実に前認定の久代の橘巡査長に対する陳述内容をも合わせ考えると、仮に尾田巡査長が隆志の両親・妻から隆志の性格、酒癖等について事情を聴取したとしても、許可をするにつき問題となりうるような供述を得られたかは極めて疑問である。そのうえ、前認定のとおり、隆志は概して仕事振りは真面目であつて、雇い主や同僚からもおとなしく几帳面との評価を得ており、また、酒を飲んだうえでの行状についても、前記少年時代の傷害事件を除けば、仕事場や自宅の近隣で他人に暴力を振うことがなかつたことからすると、右調査において、元の雇い主、同僚近隣住民から、隆志の性格、行状について特に異常としなければならないような供述が得られる可能性は殆んどなかつたといわなければならない。そうすると、調査を尽すことにより前記調査を担当した尾田巡査長、さらに猟銃の所持許可について専決権限を有する城東警察署長に新たに判明しうる事実のうち、許可するにつき問題のある事実は、前三1(1)記載の犯歴、高知少年鑑別所における隆志の記録ということとなる。

4  銃刀法五条一項六号の「他人の生命若しくは財産又は公共の安全を害するおそれがあると認めるに足りる相当な理由がある者」は、その文言から明らかなように抽象的な不確定概念を規定したものであつて、その内容を一義的に確定することは困難である。許可権限を有する者の恣意的解釈運用が許されないことはいうまでもないが、法の趣旨・目的により意味・内容を決定するにしても、ある程度解釈に巾があつて選択の余地が残ることは避けられない。したがつて、同法五条一項各号、特に六号の欠格事由に該当しないとしてなされた許可の違法性の有無を裁判所が事後的に判断する場合、判断基準となる資料、すなわち右許可の審査を担当する者が審査時点において知つていた事実及び通常なすべき調査を尽すことにより知りえた事実から欠格事由に該当しないとした判断が、銃刀法の趣旨・目的を逸脱していないかどうかとの観点からなされるべきであると解する。これ本件についてみるに、判断基準の資料のうち、欠格事由への該当性が問題となりうる事実は、さきに判示したとおり、前三1(1)記載の犯歴とこれにより受けた保護処分に関する記録であつて、右事実のみから隆志が同法五条一項六号に該当するといえるかが問題である。そこで考えるに、同法が、許可を条件に、狩猟、標的射撃の用途に供するため猟銃を所持することを許容していることは、さきに指摘したとおりであり、また、〈証拠〉によれば、昭和四八年八月末現在で大阪府下においで猟銃二万〇五二八丁(うちライフル銃一九二二丁、散弾銃一万八六〇六丁)の所持が許可されていたことが認められ、その多くが余暇を楽しむためのものと推認されるのである。したがつて、隆志に昭和四〇年から昭和四一年にかけて、前三1(1)記載の犯歴があり、このうち傷害事件により中等少年院に送致されたことが猟銃の所持許可の審査担当官に判明していたとしても、前認定のとおり、右の各事件はいずれも少年時代に犯された犯罪であつて、窃盗事件の内容は比較的軽微であり、傷害事件の内容も下駄や素手で殴打し打撲傷を負わせた事件で、刀剣類等の本来的凶器を使用した悪質なものでないこと、少年法は少年時代の人格が可塑性に富むことから、その犯罪につき刑罰とは異なる保護処分により少年の性格を矯正する方途を開き、少年院送致も右保護処分の一種であること、隆志は右傷害事件から六年後、成人に達してから四年半後に前記猟銃所持の許可申請をしたものであり、しかもその間の隆志の行状異常な点が発見しえなかつたことなどの事実に鑑みると、隆志が、銃刀法五条一項六号に規定する者に該当しないとする判断も、同法及び少年法の趣旨・目的に照らし、あながち不当な解釈態度とはいえないというべきである。

右のとおりで、隆志に対する猟銃の所持許可が違法な行政処分とは認められないので、これが違法であることを前提とする原告らの主張は採用できない。

四さらに、原告らは、警察が警らを厳重にし、特に岡本青夫から一一〇番の電話通報を受けた時に直ちに出動していたならば、本事件が発生する前に徘徊中の隆志を発見して制止することも不可能ではなかつたから、被告らには本事件発生の事前抑制を怠つた責任がある旨主張するので判断する。

〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。

(1)  隆志は、昭和四八年九月一九日午後八時ごろから錦荘四一号室の叔父森岡武士の居室において、武士及び吉岡彦輔と飲酒していたが些細なことから武士との間で口論となり、日ごろ酒癖の悪い武士から「帰れ」と怒鳴られて四八号室の自室に逃げ帰つた。ところが、追つて来た武士がさらに入口の扉の外から「殺してもうたる。」などと口ぎたなくののしつたことから、隆志が過度の飲酒(午後六時ころ以降ビール大瓶約四本、ウイスキー約二〇〇ミリリットル)による酔いも手伝つて錯乱状態に陥り、本件猟銃及び散弾実包を格納していた銃砲保管庫及び実包保管庫(いずれも金属性・各別に施錠)の鍵を探し始めたため、母の久代は、右鍵を隠し持つて三六号室の自室に一旦は戻つたものの、隆志が金槌で右保管庫の施錠部分を叩くなど暴れ始めたので、隆志の妻の千代からの懇請もあつて、午後一一時二〇分ころやむなく隆志に右鍵を手渡した。久代が約五分後に四八号室を覗いた時には、隆志は右保管庫をまだ開けないでじつと座つていたが、約二〇分後に再度覗いてみると、保管庫は開いており、隆志の姿も見えなくなつていた。

(2)  岡本青夫(女性)は、本事件当時錦荘の二三号室に居住していたが、同日午後一一時一〇分ころ三六号室の前を通りかかつたところ、千代から隆志が暴れているので警察に電話して欲しい旨依頼された。岡本は、隆志・千代夫婦の居室が静かなのにおかしいとしばらく躊躇していると、午後一一時二〇分ころ久代から呼び出され、錦荘の物干場で、隆志が銃を触つているので早く警察へ電話して欲しい、錦荘からでなく外からかけてほしい旨頼まれたので、かかわりあいになりたくないと思いつつも、錦荘から二、三〇〇メートルの距離にある公衆浴場観幸温泉前の公衆電話で、午後一一時三〇分過ぎから五、六回一一〇番のダイヤルを回したが、話し中で通じなかつた。そこで、少し時間を置いて午後一一時五〇分再び一一〇番のダイヤルを回し、電話口に出た大阪府警察本部警ら部通信指令室巡査部長山下公徳に対し、錦荘の二階に酔つ払いが来て困つていると頼まれた旨述べて、錦荘への道順を説明した。

(3)  隆志は、本件猟銃を携帯して錦荘の自室を出た後、約一二〇メートル離れた上月国雄殺害現場まで寄り道することなく歩いて行き、偶然行き会わせた上月国雄に対しやにわに実包を発射した。そして、前記通信指令室に事件の第一報が入つたのは、同日午後一一時五三分であり(通行中の男氏名不詳者の申告による)、同指令室係官は直ちに現場を警ら中の警ら用無線自動車二台に対して現場急行を指令するとともに、城東警察署その他一五の警察署に対して緊急配備を発令した。右無線自動車二台は同時五八分現場に到着した。

右のとおり認められ〈る。〉

右事実によれば、隆志が錦荘を出たのは午後一一時四五分ころ、上月国雄に対し最初に発砲したのは午後一一時五一、二分ころと推認され、一方、岡本青夫が大阪府警察本部に電話通報したのは午後一一時五〇分であるから、警察が岡本青夫からの電話通報後直ちに出動したとしても、本事件の発生を事前に抑制することは不可能であつた。そして、他に錦荘付近において特に警らを厳重にすべき事情があつたと認めるに足りる証拠がない以上、本事件発生前に徘徊中の隆志を発見して本件猟銃を取り上げ事件発生を事前に抑制することは事実上不可能であつたと認められるのである。

よつて、被告らには本事件発生の事前抑制が可能であるのにこれを怠つたとする原告らの主張は、理由がないというべきである。

五以上の次第で、原告らの請求はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(金田育三 田中清 中谷雄二郎)

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